ヴェルサイユ宮殿に住んでいたのは誰? 国王3代の栄華と没落
〈鏡の回廊〉や広く綺麗な庭園で知られるヴェルサイユ宮殿。世界遺産でもあり、フランスの有名な観光名所ですが、実際にはいつ頃、どんな人物が暮らしていたのでしょうか。
うーん、ルイ十何世だとかって聞いたことはあるけど…。正直よく分からないや。
そうね。特にヴェルサイユ宮殿で暮らしたのはみんな「ルイ」さんだから、余計に覚えにくいかも。
ヴェルサイユ宮殿が一番華やかだったのは、ルイ14世、ルイ15世、ルイ16世の時代。確かに3代とも「ルイ」さんなので、分かりにくいですよね。
ただ、3人ともそれぞれすごく個性が強いので、実は深堀りするととても興味深いですし、ヴェルサイユ宮殿を見学する場合も理解が深まって、より堪能できるのです。
そこで今回は、3人のルイさんについて分かりやすく解説します。
〈太陽王〉ルイ14世
ヴェルサイユ宮殿を造らせた王
ヴェルサイユ宮殿はいつ建てられたのかな。
じゃあ、まずは宮殿が造られたいきさつから簡単に見ていきましょう。
パリから南西に20Kmほど行ったところにあるヴェルサイユ宮殿。ここを〈宮殿〉として造営させたのは、ルイ14世です。
もともとここは、ルイ14世の父であるルイ13世が狩りを楽しむ館として使っていました。いわゆる別荘のようなものですね。狩りはこの時代の貴族や王族の娯楽のひとつでした。
ルイ14世は、その狩りの館を増改築させて宮殿にしたのです。造営が始まったのは1681年。正式に宮廷として使い始めたのは1682年でした。
それまでは宮廷はどこにあったの?
パリのルーヴル宮殿よ。ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』で有名なあの美術館も、昔はフランス国王の宮廷だったの。
へーっ!ルイ14世はどうして宮廷を別の場所に移したの?
宮殿をヴェルサイユに移した理由には諸説あります。有力なのは次の2つのようです。
- ルイ14世が幼い頃、貴族たちが王家に対して反乱を起こした際、ルイ自身が危険な目に遭ったため、パリから離れたかったから
- 以前からの宮廷ではなく、新たに自分で好みの宮殿を造らせたかったから
いずれにしても、ルイ14世はヴェルサイユ宮殿を住居と政治の中心に据えて、さらにそこに貴族たちも住まわせました。
こうすることで、貴族たちの行動を自分の監視下に置いて、反乱を起こさせないようにしたのです。
〝国家イコール自分〟の俺様王
宮殿を造らせた経緯を聞くと、ルイ14世っていかにも王様らしい王様だったように感じるね。実際、どんな王様だったんだろう。
ルイ14世は何ごとにも精力的で、強いリーダーシップを存分に発揮した国王でした。
フランス国内では貴族層の力を弱めて権力を国王だけに集中させたり、対外的には、当時はスペインなどの周辺国と領地をめぐって戦争が絶えず、ルイ14世みずからが戦いの指揮をとったこともあったといいます。
ルイ14世は、人から賞賛されることも大好きでした。
反面、冷酷で残忍でもありました。自分の意にそぐわない人間は投獄して一生解放しなかったり、反乱を起こした民衆を惨殺したりと、冷徹に絶対王政を貫きました。
オレに付いてこい感がハンパないね。
“朕は国家なり”って聞いたことはある?
あれはルイ14世の“L’Etat, c’est moi.(レタ、セモワ)”という言葉の和訳で、もっと分かりやすく訳すと「フランス国家は私だ」ってなるわね。
うわー、やっぱり王様らしい王様だ…
ただ、そんなルイ14世の治世は必ずしも成功だったわけではありません。
長年にわたる戦争と、ヴェルサイユ宮殿造営に予算を使い過ぎて、国の財政を圧迫してしまったのです。
これが約100年後のフランス革命につながる要因の1つになってしまいました。
ルイ14世は死の間際、「戦争はするべきではなかった」と、自分のとってきた政策を後悔したといいます。
権力と富を1人に集中させすぎちゃダメなんだね。
それにしても〈太陽王〉ってすごい愛称だよね。イメージにピッタリだな。
富と権力を一手に握って、豪華な宮殿で暮らしたんだものね。
自身を太陽神アポロンと重ねた表現。
人々に光を与える存在でもありたかったのかもしれないわね。
〈最愛王〉ルイ15世
政治には興味なし
この肖像画を見る限り、ルイ15世は少し気が弱そうっていうか、オレ様感は薄いよね?
その印象はきっと合ってるわね。ルイ15世は内気で臆病な性格だったそうよ。
何ごとにも精力的だったルイ14世に対して、その跡継ぎのルイ15世は引っ込み思案で、政治にはあまり関心がありませんでした。
ちなみにルイ15世は、ルイ14世のひ孫です。
ひいおじいさんとのギャップが激しいね。
ルイ15世は政治は人に任せて、本人は趣味の狩猟に明け暮れていたそうです。
愛情は旺盛
ただ、女性との関係では精力的で奔放でした。妻のマリー・レクザンスカとは仲睦まじく、レクザンスカは11人もの子どもを産んでいます。
レクザンスカはほぼいつも、お腹の中に赤ちゃんがいる状態。そのためルイ15世には、公妾(こうしょう。公式の愛人のこと)や愛妾(あいしょう)がたくさんいました。
公妾と愛妾ってどう違うの?
公妾は法律で公式に認められた愛人。愛妾にはきちんとした身分は認められなかったけど、公妾のほうはヴェルサイユ宮殿の一室に専用の部屋を持って生活できたの。
場合によっては政治に関して国王に助言することも。特にルイ15世は政治へのこだわりがあまりなかったから、相手の女性の発言は聞くことが多かったみたい。
ルイ15世には、ポンパドゥール夫人やデュ・バリー夫人などの公妾が生涯のうちに5人、そのほかにも愛妾がたくさんいたそうです。
〈最愛王〉(フランス語では「Le Bien-Aimé(ル・ビヤンネメ)」と呼ばれたわけがよく分かりますね。
ただ、政治面ではルイ15世も周辺国との戦争に多大な予算を使うようになります。ルイ15世は、若い間に政治を任せていた宰相のフルーリー枢機卿が亡くなると、その後は宰相を立てずに親政をとるようになりました。
ルイ14世の時代に逼迫した財政を、フルーリー枢機卿が立て直しかかっていたのですが、ルイ15世の政治でまた厳しくなってしまったのです。国家予算は破綻しかかっていました。
ということは…? うーん、あの有名な悲劇が見えてきた…
ルイ16世と王妃マリー・アントワネット
貧乏くじを引いた国王
ルイ15世が64歳で病死すると、孫のルイ16世が国王になりました。20歳のときでした。
そのときにはもう、ルイ16世はマリー・アントワネットと夫婦になっていました。
先々代は圧倒的なリーダー性の持ち主、先代は女性好きで内気。ルイ16世はどんな人物だったの?
ルイ16世も内気で、優柔不断だったみたい。ただ勉強熱心で、真面目な性格だったそうよ。政治にも熱心で、国の変革にも協力的だったんだって。
それなのにフランス革命が起こって、最後には処刑されてしまったルイ16世一家。もしかしたら運が悪かった、とも言えるかもしれません。
先々代のルイ14世と先代のルイ15世の治世で、ルイ16世の時代は財政が慢性的に逼迫していました。
とはいえ当人にもまったく責任がなかったわけではありませんでした。財政は逼迫していたにもかかわらず、やはり対外戦争、特にアメリカ独立戦争に関わって、財政をさらに圧迫してしまいました。
さらに、当時は小麦が不作で、食糧難に陥っていた民衆による暴動も起きていました。
誤解や偏見で広まった王妃へのデマ
ルイ16世の代だと、国王よりも王妃のマリー・アントワネットのほうが日本ではよく知られてるよね。
浪費家の悪女だったとか、それはデマだったとか、いろんな話を結構聞くけど、実際はどうだったんだろう?
マリー・アントワネットに関しては、デマの部分が多いっていうのが今の見方みたい。
マリー・アントワネットは、十代半ばでオーストリアからやって来て、ルイ16世の妃になりました。
つまりフランス人から見れば、外国人なわけですね。これを快く思わない国民は多かったのです。
これは当時敵対していたオーストリアとフランスの関係をよくするための政略結婚でした。こういう結婚はマリー・アントワネットに限らず、当時はよくあったことで、国民の反感を買っていた王妃はマリー・アントワネットだけではなかったようです。
でも「浪費家だ!」とか「不倫してる!」とか悪評高かった王妃って、ほかには思いつかないな。
まだ何か原因がありそうだね。
そのとおり。マリー・アントワネットの場合は、時代背景と当時の宮廷での慣習が国民の反感を大きくした最大の原因かもしれないわね。
当時、ヴェルサイユ宮殿内では、先々代の決めた規則で日々の行動がガチガチに縛られていました。
さらには先代のルイ15世の最後の公妾だったデュ・バリー夫人とマリー・アントワネットの折り合いが悪く、宮殿内の貴族たちの間でマリー・アントワネットに対する悪評が立ちます。
マリー・アントワネットは、そんな宮殿での生活が窮屈になったのかもしれません。宮殿よりも、離宮であるプチ・トリアノンで、ごく少数の親しい人たちに囲まれて生活するようになりました。
なるほど。王妃の気持ちも分かるなあ。窮屈で疲れちゃったんだね。今で言う適応障害っぽい感じだったのかな。
だけどまだ若いとはいえ王妃なんだし、周りの貴族たちからしたら、王妃は「仕事を勝手に投げ出してる」って反感買うのも分からなくもないね。
そういうことよね。何だか宮殿内のドロドロした人間関係が見える気がするわね…
ただ、マリー・アントワネットは国民の暮らしが困窮していることにはあまり関心を持たなかったのも事実。スウェーデン人であるフェルセン伯爵と恋仲であったことも事実でした。
「浪費家だ!」も「不倫してる!」の声もまったくのデマではなかったので、時代背景のせいばかりではありませんが、マリー・アントワネットに対する悪評やうわさ話には尾ひれが付いて国民の間に広まりました。
当時は前述したように国の財政は破綻寸前。さらには小麦粉の不作が続いて、国民は極度に苦しい生活を強いられていました。
1789年7月14日のバスティーユ牢獄襲撃事件とそれに続くフランス革命は、そんな背景の中で起こりました。
少し気の毒だね。ルイ16世夫妻の至らなかった部分もあったとは思うけど、いってみれば先代と先々代が財政を悪化させたり国民に重税を課したのが一番の原因なんじゃない?
そういうことね…
今回は、ヴェルサイユ宮殿の3代の主(あるじ)について解説しました。
ヴェルサイユ宮殿が国の中心として使われていたのは、17世紀後半から18世紀末までのわずか100年余り。ただ、その中にはたくさんのエピソードや事件がありました。
ルイ14世、ルイ15世、ルイ16世夫妻については、これからも少しずつ解説していきます。